開く

先日、高知の飲み屋で意気投合した同世代の写真家が主催する写真展にゲスト出展することになった。何を出展しようかと、久々に自分のポートフォリオを開いたら、その写真たちを撮った当時のことを思い出した。

20年くらい前、東京での仕事を一区切りし3ヶ月過ごしたニューヨーク。それまでずっとアフリカやアジアのマイナーな場所が好きだった私にとって初めての北米。いろんな人種が混ざったエネルギッシュな街にすぐ魅了され、人を撮りたくてずっとカメラを持ち歩いていた。

初めての道を歩きながら、一瞬の出会いを写真にする。一瞬の間に顔を合わせ、相手に受容してもらってシャッターを切る。「写真撮ってもいい?」という会話は多くの場合邪魔になるからそういった会話はほとんどなしで、写真を撮ることによって交差したお互いの人生の時間に喜びが生まれるようなやり方を求めていた。

見知らぬ相手にカメラを向けるのは、勇気がいる。拒絶されるかもしれないと思うと、つい尻込んで素通りしたくなったりもする。でもこちらに迷いやためらいがあると相手はほぼ受け入れてくれない。だから写真を撮りたい自分の方が自分を開いていくしかない。

日々ニューヨークの路上で写真を撮りながら、「私、開いてます」という状態でいる訓練をした。自分をさらして何が起こるかわからないポジションに身を置くのは簡単ではない。こたつで寝転がってみかん食べてたほうが全然いい。でも多分私は人と命を交わし合う瞬間を味わいたくて写真を始めたし、それが出来てる時には自分が喜びのアドレナリンで満たされるのを感じた。

自分が開いてる時とそうでない時では、相手の反応や撮れる写真がまるで違った。

「自分が開いた状態は相手に見えるし伝染するんだ!」

今なら人の中に見えるものは物理的なものだけではないというのがわかるけど、その当時の私にとって、それはヘレンケラーが「water!」といった瞬間を思い出すような驚きだった。この頃に無条件で自分を開く訓練をしたことは、写真だけではなくその後の自分の人生を助けてくれている。

「開く」って抽象的で伝え方が難しいけれど、多分自分が開いてる時は、恐れや迷いやその他もろもろを捨てて、自分も相手もありのままでジャッジしませんという状態なんだと思う。そうするとその状態をキャッチしてくれた相手も、そのままを見せてくれる。

私にとって写真を撮るということは、最初に自分から両手を開くこと。誰だって受け入れられたいし愛のエネルギーに触れたい。人の命と繋がりたい。「開く」というのは、そのための在り方。大人になったらいろんな気持ちが邪魔して少しづつ難しくなるかもしれないけど、それは筋力と同じで、勇気を出して鍛えればどんな人にもまた備わると思う。命そのままで触れ合える、そんな世界を生きていきたい。