3月24日の夕暮れに


16歳だったこの日、28人の同級生と先生が修学旅行の列車事故で亡くなって長い年月が経つ。

この日に高知にいるのは数十年ぶりで、毎年集まろうと呼びかけてくれている同級生と一緒に小雨の中、桜の木の下で集まった。景色が変わったのか記憶が薄れたのか、まるで知らない場所に迷い込んだみたいだった。

私は高校を卒業して以来ずっと県外。高知を離れて長い年月が経つ私と、ずっとこの日を高知で迎えてきた同級生とでは具体的な関わり方が全然違うことを実感した。缶ビールとおつまみを持って集まったことが大人っぽくて、16歳の自分から長い年月が経ったことを感じた。この事故から、地元の同級生たちがそれぞれにどんな時間を過ごしてきたのかを聞けて心に残るひと時だった。

高知在住の友だちの1人は、毎年この日は高知県下のいろんな場所にあるクラスメートのお墓参りをしながら「自分が生き残って申し訳ない」「生かしてもらってありがとう」と手を合わせて過ごしているのだという。数分の偶然で生き延びた自分は、おまけの人生を生かさせてもらってる、と。

「申し訳ない。ありがとう。おまけの人生。」

この言葉たちにとてもリアリティがあって、私の死生観も16歳の出来事からスタートしていると再認識した。

毎日いろんな偶然が重なって、今を生かさせてもらってる。

その偶然のありがたさ、そしてはかなさに時々胸がぎゅっとなる。

毎朝ちゃんと目が覚めて、太陽の光を浴びれること。ご飯が美味しいこと。笑顔を交わしあえる人がいること。全てが当たり前ではなくて、本当に毎日毎日偶然の積み重ねで、今ここにいる。

越えなきゃいけなかったり、解決しなきゃいけなかったり、うまくいかなかったり、もういやだ〜と投げ出したくなったり、生きてたら色々あるにせよ、今ここに生きていられることの尊さは全てを凌駕する。

その上で、いつも何かあるたびに、「私の人生が悪く設計されてるはずはないから、これも最終的にはいいとこに着地するわ」というイメージでいる。

大変な時ほどそう思う。だから基本的には全部大丈夫。

奇跡で生きながらえてるこの命を、生きてる間にちょっとでもいい形、好きな形にしよう。20代の頃に鮮明にそう思ってたことを、今またあらためて意識している。偶然にも同じ時代に生きて縁がある人たちと、ちょっとでも楽しくあたたかな光を交わしながら。

「自分の命を生かさせてもらったなぁ」と微笑みながら、いつか旅立とう。

今年もまた桜を見ることが出来た。

生きてるおかげで、見させてもらえた。

みんなそれぞれに生きたい人生があったはずだから「みんなの分も生きるね」とは言えないけど、まだしばらくはこっちにいさせてもらうね。ありがとう。